2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

みるの感想文

 物語で人を善い方向に導く、という考え方は理屈が通っているようで矛盾がある。なぜなら、そういった価値観はそれを発言した主体の好悪と結びつくからだ。

 なるほど共同体への忠誠は善、反社会的行為は悪かもしれない。人が共同体と社会契約に縛られている以上は嫌でも認めなければならないだろう。ベンタム風に言えば最大多数の最大幸福。全体の幸福量を増大させるために共同体には従わなければならない。

 しかし、だからといって、多数派の道理に従う義理などない。国家の宣伝だからといって常に戦争を支持するべきだろうか?仮に妊娠中絶を求めたから、反同性愛を訴えたからといってそれを支持すべきだろうか?

 現代の国家がそのような間違いを起こすはずがない、という反論があるかもしれない。しかし、共同体への忠誠そのものを正しい事だとするなら、その共同体の間違いも背負わなければならないだろう。価値判断を自分意外の誰かに依存した時点で、”間違いを起こすはずがない”と発言する権利はないのだ。それは考えなかった自分への報いでもある

 そもそも物語を善悪で語ることなどできるのだろうか。それは自分の好き嫌いとどうちがうのだろうか。孤独を好む人間、共同体からの脱出を望む人間がいたとする。彼にとっては共同体への加入は余計なおせっかいだと思うはずだ。あなたが感じた悪は他人にとっても悪とは限らない。それは好悪であって善悪ではない。

 確かに子どもに暴力的、性的なコンテンツを必要以上に与える必要はないだろう。しかし、それにしたって悪影響が確認されてから規制すべきであって、善導を目的にするべきではない。純粋であるために何かを排除しようという思想は好悪によるものであって、そこに善悪など存在しない。他人の為にお節介を焼く理由が”自分の好みに合わないから”などという理由でいいわけがない。

 我々は他者に容赦がない。性善説を支持している人間でさえ他人を矯正しようとする。私は間違っているあなたを導かなければならない、という台詞が矛盾に満ちていることに自分で気付く事はできない。誰もが正しいなら導く必要などない。

 他人に危害を加えない限りにおいて人は自由にすべきではないだろうか。自分が間違っている可能性が少しでもあるなら、他人に余計なお節介を出すのは控えるべきなのではないだろうか。