2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

最果て日記2

 昨日の続き。自分の中でローカルルール、私的領域の規定を極限まで広げたらどうなるか、いやそうすることができたなら、の話。

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 「一人だけが存在するということは、自我と世界が同じサイズになるということだと思う」の言葉が重い。最果ての場合、折衷案として成立したのが男女の仲であり聖域なのだけれど、個室に引きこもって生きている人だって勿論いる。そういえばクロスチャンネルなんかはそういう話だったか。あれは永劫回帰を含めた地獄でもあったが。

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  心というのは無限大で自由なものにみえるが、確固とした実体のあるものだ。他者の鏡像として生まれ、他者の制約下で生きながらえる。他者なくして自己というものは存在しない。もちろん、一人で生きる事で自己を拡大することはできるが、集団による経済活動に参加することで生きるという人間の性質上、それにも限界はある。それは男女の関係、恋愛でも同じことで、それはパーソナルスペースのせめぎ合いという形で現れる。

 子どもはほとんど白紙だ。ピアジェの言う脱中心化のなされていない子どもには境界というものがない。ただひたすら横暴なのだ。しかし、それ故に中心がない。自己を規定しないということ、同一性のない存在はただ内側に不安を増幅させる。その先には崩壊が待っている。子どもであろうと、人間は木のように自らのシステムに引きこもって生きることはできない。それ故に人間には男女であれ、友人であれ、境界を規定する存在が必要なのだ。

 しかし、先天的にそれができない人間をどうするのか。心の距離、身体の距離、ローカルルールがあってもそれを理解できない人間というものはいる。しかし、もし、それを管理する権限があるならどのように活用すればいいのか。それにてういては戦争編で。