印象 2013/06/01-

オールタイムベスト http://efnran.hateblo.jp/entry/2016/01/01/000000

ESCAPE FROM NEW YORKとか

 

ESCAPE FROM NEW YORK

ESCAPE FROM NEW YORK

 

  壁で囲まれ監獄島と化したニューヨークへ大統領救出に向かうスネーク・プリスキンの物語。世界的な大都市を廃墟、それも堕落を極めた刑務所の成れの果てにしてしまうという大胆な発想もすごいが、それを映像として完成させていることが素晴らしい。落書きだらけのオフィス街と、鉄さびの塊とかした車がひっくり返って道を塞ぐ街路、そんな迷路と化した街を徘徊する浮浪者たち、窓に装甲で多い窓から火炎瓶を投げながら人を運ぶタクシーにフロントライトにシャンデリアを飾ってアメ車で隊列を組んだキャデラック。猿の惑星に登場した自由の女神のようにランドマークは登場しないが、脱走防止のために地雷と壁で仕切られたブルックリン橋によって、そこが終末期のアメリカであることをしっかり印象に残してくれる。最近ではthe roadやPLANET OF THE APESが終末期の米国の都市を描いていたが、そんな作品群に負けない力強さのある映画だった。

シェロー演出「リング」への招待

 バイロイト音楽祭創設百年記念上演のドキュメント。番組はバイロイトの大まかな歴史とその中でブーレーズ指揮、シェロー演出が何を意味しているかを解説している。

 一時は殴り合いの事態にまで発展したという一九七六年の上演から六年も経過しているせいか、ブーレーズとシェローをはじめ、ヴォルフガングや録画を担当したスタッフまで勝ち誇っているのが印象的。特にブーレーズ未来の芸術 バイロイト祝祭劇100年 での含みをもたせた発言とは対照的で、百年記念上演以前の古い、格式張った信仰は過去は捨て去らなければならないと断言するほど自信満々。

 演技指導を捉えた映像は特に面白かった。場面はラインの黄金でアルベリッヒが指環を失い部下にもみくちゃにされるところなのだが、シェローが群衆の中央から指示を出してヘルマン・ベヒト演じるアルベリッヒを襲わせているので、ちょうど革命指導者のような絵面になっている。身体と声を張り上げて舞台での振る舞い方を教えていたヴィーラントとは指導内容がまったく違うのが新鮮だった。

 百年史は未来の芸術とほぼ同じ内容で、ワーグナー自信による初演とその時に残った不満、コジマによる修正、ヴィニフレートによるナチ化、ヴィーラントの新バイロイト様式による革新から構成されていた。(案の定、ヴィニフレートはヒトラーの友人と紹介されるのみで、彼女の演出内容についての具体的な説明はない)一瞬だけヴィーラント演出の指環のカラー映像が挿入されていたのが印象的だったが、それ以外は特に目新しいものはない。

 

ワーグナー:楽劇《ニーベルングの指環》全曲 [DVD]

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戦略大作戦と荒鷲の要塞の日常風景とか

  ドイツ占領下のフランスから金塊を奪取する男たちの物語。我欲を隠すことなく軍規そっちのけで金塊を目指す男たちの性格描写(愚連隊西へと思い出させる)、独軍との和解(金塊のアリかを聞いて目の色をかえたり、ケリーの硬い表情をみてゆっくりとローマ式敬礼を取り下げるオットー・アルベルティの仕草がよい)が軽快で良い。

 装備品周辺へのこだわり、軽快な台詞と見どころはあげればきりがないが、この作品のもっとも偉大な部分は戦場の日常感にあると思っている。嵐のなかで泥に足をとられながら行進する独軍とそのなかでマフラーから真っ黒な排気ガスを吹き立たせて圧倒的な存在感を放つティーガー、華やかなピアノ演奏が反響するフランスの田園風景のなかでキリッとした表情で歩く独戦車兵、シャーマンの装甲で洗濯物を干し、ヒーリング・ミュージックを流しながら呑気にワインを飲む米兵たち。役者のキャラクターだけではなく、スクリーンに映っているものすべてを利用して独軍と米軍の違い、フランスのゆったりとした雰囲気といったものまでカバーしているのが素晴らしい。

 監督のブライアン・ハットンはこの作品の他に荒鷲の要塞という二次大戦ものを撮っているが、これも細部まで拘っていて楽しい。冒頭の独兵に変装して雪中の検問を突破するリチャード・バートンの何気ない仕草、すれ違うくすんだフィールドグレーの独軍キューベルワーゲン、熱心にラジオの周波数を何度も変えて好みの曲を探す通信室の独兵と主筋とは一つ間隔を置いた描写の小味がきいている。

 

ニーベルングの指環 その演出と解釈

  1976年のバイロイト百周年を記念して「<指環>はいま」と題して開催されたシンポジウムの記録。参加者は指揮者から歴史家まで様々だが、本書は特に演出家に重点を置いて書かれている。

  メトロポリタンで指環を演出したシェンクのように北欧神話の延長で物語を解釈すべき、とする演出家は登場しない。これはヴィーラント、シェローを経たバイロイトでいまさら原点復帰を口にする必要性もなく、まだヴィニフレートとヒトラーの記憶も生々しい時代だったこともあるだろう。とにかく、基本的なスタンスはファルガハの

ワーグナーが総譜のなかで行った構想と、各場面での照明上の指定とは、決して重なりあいません。それらの指定は<指環>の上演化というものを考えた場合、ワーグナーの時代の舞台芸術の可能性とか映像のイメージとかに拘束されているのです。神話的な先史時代、十九世紀、現代、未来と上演が可能です。それで私は特定の時代、例えば古代ゲルマン神話の時代に舞台美術を限定することはおかしいと思っているわけです。それで登場人物に「現代の眼から」捉えられるイメージを与えたいのです」(演出家ウルリヒ・メルヒンガー、トーマス・リヒター=ファルガハ(舞台美術)、ハンス・ヨアヒム・シェーファードラマトゥルギー)と語る.p.37))

という発言に凝縮されている。

 興味深いのは、ジークフリートプルードンバクーニンといった社会主義陣営と捉えてバーナード・ショー的な読み方をする舞台美術家がいる一方でパトリス・シェローがまっとうな解釈を提示していることだ。

 彼は百年記念として西洋史的な読み方を提示して物議を醸しだした人物だが、本書のインタビューを読む限りは指環を政治的な告発として読んではいない。ファルガハのようにジークフリートを革命家としては読まず、彼の無鉄砲ぶりは単なる無知からきた制御不能な暴力、ヴォータンのネグレクトの結果としている。だから、彼を舞台に現す場合は自己喪失に陥った幼児で、「自分が退屈で愚かであることを知っており、さらに、不安や懐疑を知らないかぎり、決して完全な人間にはなれないことに気づいている。これは決定的な契機である。この人物は「逆転」し、魅力的になる。というのは、「不完全」であるというこの持続する直感こそが、彼を最後には自由にすることになるからである。この直感が彼を偉大にする。恐れを知ってはじめて人間と呼べる」ようにしなくてはならない。メト版の感想でも書いたが、私はジークフリートの横暴さが生理的に受け付けず、また19世紀的な視点で言っても不自然だと考えていたため、この解釈には納得がいった。

 また、ショーが見て見ぬふりをした神々の黄昏についてもジークフリートへの献身、イタリア・オペラのような大団円とは読まず「父親の心配」からの解放と解釈している。もうすでに披露してしまった舞台についていまさら注釈をいれる必要もないと思っているのか、それともトラブルを恐れてのことかはわからないが、彼がこのようにインタビューに答えているのは意外だった。

 他にも「ワルキューレはヴォータンがフリッカの怒りをかわすためにブリュンヒルデと共につくりだした自作自演であり、ブリュンヒルデの目配せはその象徴」という興味深い指摘もあった。

p.37,44,190,193,195,199,293,333

ニーベルングの指環 その演出と解釈

ニーベルングの指環 その演出と解釈

 

 

完全なるワーグナー主義者

  バーナード・ショーによる指環解説本。20世紀前半の教条的なリベラリストらしい社会主義リアリズム風な解読が特徴。北欧神話を素材につくられ、1945年のベルリン陥落を髣髴とさせる結末故にナチズムを用意したとまでいわれる作品を彼が解説しているのもなんだか不思議な話だが、元々音楽評論家だったことがきっかけになったらしい。おかしな縁で書かれた本書だが、ワーグナーと同じく革命にある程度理解があるおかげで、ラインの黄金からジークフリートまでの流れを貴族社会の崩壊と市民社会の誕生の戯画として明階かつ筋を通して解説してくれる。ドイツ民族の神話としても参照される作品がリベラリストによって解体されるというのは皮肉なことだが、筋の複雑さに加えて、ヴォータンやジークフリートのように気分があちこちへ飛ぶ登場人物が多いだけに、一つの視点から意味付けをしつつ筋を示してくれる本は存在するだけでもありがたい。

 曰く、ラインの黄金は貴族ヴォータンと資産家アルベリヒの闘争を通して金権の醜悪な様子を戯画し、ワルキューレは社交界の長であるヴォータンが反政府勢力を葬るために別の階層で拵えた無政府主義者ジークムントを悲劇的に描き、ジークフリートはそれらすべてと縁を切った希望の無政府主義者ジークフリートを提案している。

 アルベリッヒは貴族社会や社交界の美しさに憧れるも拒否され、金の亡者に成り果てた哀れな男、隠れ頭巾はシルクハットを象徴し、慈善事業で労働者につけいって知らぬ間に金銭を搾取する金持ち(ヴォータンがワルハラを建造する際に巨人族と一騒動起こしていることを考えるとなかなかおもしろい説だ)、ジークフリートをヴォータンが権力者、法の番人という地位を維持しながら非合法な手段でアルベリッヒらを打倒する非合法な手段と見ているのが新鮮だ。

 ただ、ジークフリートまでを革命劇として作品を読んでいたショーが神々の黄昏に解説にはいるなり、前置きからこれを大仰で無意味なグランドオペラへの退化だと失望しているのが興味深い。せっかくジークフリートによって契約の鉾が砕かれ、旧体制が打破されたのにわざわざ世界を終わらせつ必要はない。ましてや愛を叫ぶのはもってのほかということらしい。

 結果論になるが、彼のいう二十世紀前半に生まれたジークムントの子どもたちは神々を撃ち殺すという市民の願いは叶えたはいいが、その後も指環の筋書き通りにソビエトで、あるいは中国で、いまでも北朝鮮で同志を吊し上げて虐待している。無知であったが故にギービヒ家のハーゲンの術中にはまって背後を刺されたジークフリートそっくりだ。初期の社会主義者には共産主義国家の党員の特権階級化、全体主義化や90年代のソ連邦の崩壊とその後の混沌がまったく見えていなかったことの証明だろう。革命は既存の習慣の打破から生まれるのだろうが、無作意な破壊は生活基盤そのものを破壊してしまう。ショーはオーウェルやケストラーのように社会主義の未来を読めなかったが故に指環を読み誤った。

 しかし、彼の発明した政治的読替は戦後にドイツの地に引き継がれている。私はシュトゥットガルトジークフリートは金持ちのデブ親父の元で育った反抗期のデブで、テレビゲーム感覚でノートゥンを鍛えるバカという演出が大好きだ。彼が社会主義を称えるためにおこなった読替えは逆に革命の難しさを、間抜けさを風刺するという形で生存している。ショー自身は文句を言うだろうが、彼の発明はまだ生きている。

完全なるワーグナー主義者

完全なるワーグナー主義者

 

 

指輪物語とか

 冥王サウロンの野望を打ち砕くために指環を滅びの山へと運ぶ旅の仲間の物語。
 ヴァイキング風の絵面で故郷奪還と王への忠誠を描いたのがホビット 思いがけない冒険なら、この三部作は中世騎士物語の幻想文学を利用した読替えだといえるだろう。富の象徴でもある指環に心を奪われて一行を追う黒馬に乗った干乾びた王、魔法使いに心を狂わさて息子を失い失意のなかで親子の縁と王座について考えなおす王、偽りの王座を維持しようと横暴に振る舞った結果二人の息子を失い自ら火だるまになって身を投げる執政官、過去の裏切りに囚われ亡霊となった王と先王から引き継いだ剣をもって契約を締結する王子等々、アーサー王シャルルマーニュに登場するような忠誠と忠義、君主のあり方を示す物語がいくつも盛り込まれている。
 この作品の最大の特徴はオスマン帝国を彷彿とさせる無数のオークと騎士たちの戦いだろう。平原はトロールの軍楽隊に率いられたオークによって埋め尽くされ、甲冑で身を固めた人間、エルフの精鋭たちとエルフと何キロにも及ぶ面でぶつかりあって屍の山をつくり、まるまると太った大木のような戦象がその山を突き崩して生者も死者も問わずになぎ払う。
 追い詰めた人間の城は破城槌で城壁が打ち壊され、爆薬筒で石壁ごとバラバラに砕かれ、時には城ごと投石機でばらばらに解体し、また時には梯子で城壁を乗りこえられて片っ端から首が刎ねられる。スパルタカスのような作品を除けば、このような軍団同士が面でぶつかり合った作品はない。
 緑のなかでのほほんとパイプをくわえていたホビットと魔法使いの顔がだんだんとすすで汚れ、切り傷に顔を犯されて行く様子が強烈な印象を残す。

 

 

沖縄決戦とか日本のいちばん長い日とか

 シンゴジの影響で岡本喜八が話題にあがることが多くなったので、土日をつかって「沖縄決戦」と「日本のいちばん長い日」を観た。

 どちらも会議映画であり、(史実はどうあれ)現場の足を引っ張るのが陸軍上層部だという点では一致している。沖縄決戦では大本営の一定しない作戦指導のもとで部隊の引き抜きと移転、飛行機もないのに滑走路の建設が繰り返され、混乱した状況のママで戦闘に突入する。前半一時間は複雑に編まれた陣地と入り組んだ地形を利用して一時は優勢な日本軍も次第に米軍の放つ砲弾と白煙のなかで戦う術を失い、突撃と自決を重ねる屠殺場と化していく。小兵力でも打って出よという電報の虚しさが強烈な印象を残す。

 この「打って出よ」という言葉に惑わされ、引き際を見失った結果が「日本のいちばん長い日」だ。東京と大阪の大空襲に引き続いて、広島と長崎を原子爆弾によって失い、沖縄を占領され敗戦が目に見えている状況で、東京にいながら本土決戦を望む陸軍の人々は牛島を指導しようとした大本営と重なる。降伏条件が気に食わなければ本土決戦を、特攻機の出撃をと叫ぶ。終戦の勅書の作成時に「戦局日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」に書き換えるように熱意を注ぐ様子は、撤退を転進と言い換え現実逃避を図った全陸軍と酷似している。「最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない」とは48年後の1993年に荒川が呟いた言葉だが、これら二つの喜八映画ほど明確に表した作品はないだろうし、浮動する指導者たちの姿は確実にシンゴジラに引き継がれている。

「愚連隊西へ」と「血と砂」も見ておきたかったが、時間がないので断念。