2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

平家12

 視て、語る。

 後白河法皇や清盛をはじめ、目については執拗なほど表現の多いアニメだけど、マッチカットははじめてだと思う。(10話で維盛が涙から血にイメージを流してはいる)

 空間的共時性、イメージの蓄積、転化、まぁこの使い所の多いレトリックだが、このショットでは目撃者(武士)から語り部びわ)への移動を表していた。びわという存在が語ることしかできない主体であり、作品の主題ということを考慮すればこれ以上適切な運用はなかなか思いつかない。そこから「祇園精舎の鐘の声」。語り継ぐという意思の表明ではなく、各々がそこにいたという存在の表明。像から声へ。(蓮実が怒りそうだね)


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 本編に組み込んだショットではないから言及するのはあれだけど、第二段PVの目を強調した編集も印象的だった。清盛、後白河法皇、それぞれの憎悪と悔恨を込めて剥き、涙を流す”目”が蓄積されて複合的なイメージを形成している。

 

 に、しても相変わらずメタメタなアニメだ。見せ場をあえて避けているから主筋を知っておかないとこんがらがる。そもそも真正面から事実を見ようとしないびわという語り部が世界観に合っていない。矛盾している。ただ、びわが外部に立てばアニメとしての同時代的な意義が増していくのも事実で、この逆説がこのアニメの本質なのだろう。

 未来を見ることのできる人間が目前の状況に絶望し、ならば、と平家”物語”を語り継ごうとする。そこには歴史を真正面から見据えようという歴史学的な誠実も映像表現の欲望もない。外部に立つことで本質を明らかにする、語り部としての責任だけが残る。

 彼女が平家の人間であったなら、あるいは源氏の誰かであったなら、そこには利害が発生しこれほど中性的な作品にはならなかっただろう。一度発生した想いは増幅し、推しを生んでしまう。諸法無我のない場所に諸行無常はない。

 とはいえ目指しているものはポストモダンなあれとも似ているし、あれと同じような落とし穴に嵌りそうな雰囲気もある。たぶん、びわに焦点を定めて現代劇として読んでしまえば皆が同じ罠に嵌って物語の自律性を見逃してしまう。文脈を指定しないからこそ安定している作品でもあるからだ。かといってエンターテイメントではないからと否定するのもなんだかなぁ、という思いも個人的にはあるわけで……むずいね。