2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

丸善で早矢仕を食べたり平家を見たり

 来月には京都のアパートを引き払って奈良に戻る、ということで行ってきた。

f:id:efnran:20220125031435j:plain

 酸味の多い、トマトベースの味付けだった。カレーやデミグラスソースはまず野菜と肉で出汁をとるものだけれど、このハヤシライスにはない。特に肉の味は皆無といってもいいほどで、トマトにふわっと旨味がのったような、上品な味わい。おそらく、市販のルーで再現するのは困難だろう。また食べたい。

f:id:efnran:20220125031448j:plain

 

 これはセットについてきた檸檬ケーキ。丸善といば檸檬檸檬とくれば梶井基次郎。京都の店舗ということもあってその辺を”わかった”献立。味も檸檬に相応しく渋みがきいている。ただ、単にえぐいのではなく檸檬の部分をムースが覆うことで味を相殺し合っていて、ケーキとしての完成度も高い。これもまた食べたい。

 

 もう引越しまで秒読み段階にはいっているのに何でここで欲が出てくるんだろうね。よくないよくない。

 

 あとアニメの平家物語を観た。

 これが困った作品なのだ。実は「平家を見たり」という題にしたのには訳がある。これは「平家の物語」であって「平家物語」ではない。

 第一話で殿下乗合事件を「語り」と「紙芝居」で済ませていることからわかるように、この作品には古典としての「平家物語」を語るつもりがない。これは作中の運動、何が動いているかを観ていればよくわかる。

 代表的なのは「眼」と「手」の連動だ。眼そのものが何を観ているか、については多くは語らない。三井寺、壇ノ浦、平家物語を児童書で読んだ人間にもそれが何であるかは容易に想像できるだろう。いや、できてしまう、と言うべきか。そこには平家物語という既存の物語以上のものはない。脚本上の設定から導き出された当然の帰結だ。(涙、瞳孔等々の情緒を表す「目」ももちろん登場するが、主題から逸れるのでここでは触れない)

 しかし、「手」にはそれがない。むしろ「手」はそれを塞ごうとする。びわも重盛も未来がフラッシュバックする瞬間に手で眼を塞ぎ、拒絶しようとする。この彼らの反応は我々にとっては古典として語られてきた平家「物語」の拒絶でもある。物語を語ること/読むことへの疑問と言ってもいいかもしれない。

 予備的なショットだが手に関する動きは他にもある。平家一門や清盛がはしゃいだ時に挿入される「禿頭を叩く手」、重盛がびわと出会う所で他の武士の「抜刀を止める手」、手、手、手...。冒頭、取締りを行うかむろにびわが詰め寄ろうとする場面でそれを父親が引きとめようとするが、そこにも「引き止める手」の運動がある。手が物語を突き動かしていく。

 語る手段は他にもあったはずだ。映画なら衣笠貞次郎の地獄門や横溝健二の新平家物語、もうちょっと遡れば講談、さらにさらに遡れば平曲だってある。(琵琶法師に至っては冒頭で「斬られている」)しかし、この作品はその「血湧き肉躍る」「焼き直し」を拒絶し、語りそものを疑問視している。

 だから、この作品は「平家物語」ではない。起承転結、序破急、文化的類型、そういったものに通じる道を「運動」することで自ら閉じている。文字をなぞるのでもなく、語り聞かせるのでもなく、自ら動くことによって「平家」を表すためだ。

 物語の起伏に乏しい、といえばそうかもしれない。商業作品である以上は読者を取り込む努力はしなければならない。ただ、それが古典である必要もない。山田尚子のファンであってもかまわないはずだ。言ってしまえば、作家主義を貫き通すことで古典的類型から離れる、ということも可能になる。そういう意味では僕好みだし面白かった。

 

 そんな感じで観た平家物語だけど、これ見て思い出したのがベケットゴドーを待ちながらだったんだよね。人を「待つ時間」の「空間的実在感」。この作品の批評には物語る事、人を煽動することはファシズム的だ、というのがあって、今回のレビューモドキにはその観点がかなり入っている。というか別役実や等々不条理劇の独白は累計の解体や時間の引き延ばしを目的としているから別に珍しいものではないかもしれない。案外、昨今のアニメも現代劇として通用するかもしれないなぁ。(御先祖様万々歳及び押井作品は諸にそれだけど、あれは異端だしなぁ……。)

 

 ながなが書いてたけど掃除せんと。五徳にこびりついた焦げ付きが、油が取れねぇ!