2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》(メト1990年版)

  ラインの黄金に引き続いてワルキューレを観てみた。ヴォータンの息子ジークムントと娘ジークリンデの駆落と惨殺の悲劇が描かれており、ウォルスング家の物語が元となっている。原作は二人の悲哀が基軸だが、本作では彼らの父であり剣ノートゥングを与え支援したヴォータンと近親相姦と不倫を許さずヴォルフング家を用いて抹殺しようとするフリッカの対立が重ねあわせられ重層感が増している。彼らの子どもがやがてトネリコ炎上の引き金になるというのも憎らしい伏線だ。

 三幕では彼を庇って大神の怒りを買い、炎に包まれた岩山に閉じ込められうブリュンヒルデが描かれる。ラインの黄金と並ぶ、一見神々しいおはなしなのだが、これも神々の黄昏の前奏曲になっている。部分的には喜劇的悲劇、俯瞰的に観ても喜劇的悲劇という何とも味わい深い作品構成だ。

 さて、序章が神々の物語だったのに対して、第一夜は人間ドラマになっている。女神がほとんど登場しないため、舞台、衣装共にローマ、ゲルマン風に演出が統一されている。例えばヴォータンはラインの黄金に登場した時と同じくローマ風のマントに胸甲、ブリュンヒルデをはじめとしたワルキューレたちも大神の部下ということで同じ服装に統一されている。ジークムントは逃亡中なので、鎧は着用せず着の身着のままだが、身にまとっている物自体はワルキューレたちの下位互換といったところだ。フンディングの館もそれにならってバイキング風の掘っ立て小屋になっている。なお、魔の炎があがるヒンダルフィヤル山も単なる岩山であり非常に簡素にしあげてある。

 驚いたのは歌手たちの激しい身振り手振りとそのわかり易さだ。ジークリンデは真っ白な歯をむき出しにした笑顔で戦士に水を振るまい、戦士が戦歴を語るとフンディングが目をギョロつかせて聞き入る。フンディングはジークリンデが戦士の妹だと発覚した途端に略奪したことを誇示するように顎を出して誇らしげに笑うのだが、この表情が絶妙に気持ち悪い。

 とどめは春と愛の演奏開始と共にバタンッ音を立てて開くフンディング邸の扉。恋が実ったからといって風が吹くだろうか、という反物語的な疑問はさておいても、ライトモチーフを含めた音楽による内面、状況表現が主なバイロイトとは真っ向から対立するような演出であることは間違いない。

 指輪物語を彷彿とさせるような毳毳しい舞台に無声映画時代を思わせるオーバーリアクションの連続、バイロイトの近代演出を愛好する人々からすれば身の毛もよだつようなワルキューレだが、個人的には気にいっている。私はもともと第一幕の純愛というテーマに非常に貴族的、オペラ的なものを感じていて、春の歌も嫌いだ。だからベーム版のジェームズ・キングとレオニー・リザネク色っぽい掛け合いであろうと印象は残らないし、むしろここまで脱臭され記号化されると白けもしないので調度良い。かなり身勝手な理由ではあるが、なかなか楽しめるワルキューレだった。

 

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》全曲 [DVD]

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》全曲 [DVD]

 

 

追記

そういえば第三幕冒頭の騎行にはワルキューレ以外の人物が登場しない、つまり英雄たちの死体が登場しない。まさに地獄の黙示録の”突撃する戦乙女”といった風な演出で、ヴォータンの英雄コレクションを支える女たちにはとてもじゃないが見えないのだ。1990年といえば、時期的にはバイロイトでクプファーの演出と重なっている。向こうはシェローの解釈をもとにミイラを運ぶヴァルキューレとなっていたが、同じ時期に上演されたものにこれほど差があるというのも興味深い。