2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

渚にて―人類最後の日 (創元SF文庫) 作者: ネビル・シュート,井上勇

 前回読んだ『地獄のハイウェイ』と同じく、世界の終末を描いた作品で、心地よい破滅の代表的な作品として知られている。

 心地よい破滅とはいっても、ペシミストになって文明を総括するわけでも、浮ついた気分で残り少なくなった人生を勢の限りを尽くしてしゃぶり尽くそうというわけでもない。もちろん、シドニーで廃墟化した空母や次第に音信不通になっていく海外の通信塔、合衆国からの最後の通信等々、人類滅亡後の魅惑的な風景は登場する。

 しかし、そこは本質的ではない。人々が死を受け入れるまでの段階を生理的に描いていることが重要だ。

 この作品の放射能がオーストラリアを覆い、誰一人生き残ることはできないと知った時の、人々の反応は様々だ。蔵に大事にしまってあった上等のワインを「もったいない」と叫んで飲みつくそうとする老人、花壇を整備して十年後の満開を幻想する夫婦等々。

 一見すると余暇を楽しんでいるように見えるのだが、細部には諦観と現実逃避がある。安楽死をすすめる夫と妻の会話が象徴的だ。

「ぼくたちみんなにとって、あらゆるものの終わりなんだよ。ぼくたちが当てにしていた残りの渉外もなくなってしまうし、ジェニファーも、その一生を全部失ってしまう。しかし、じぇにふぁーだって、なにも、たいして苦しい想いをする必要はない。もういけないというときになれば、あとを楽にしてやることができるのだ。きみがほんの少しばかり勇気がありさえすればよい。その勇気を持たなくてはいけない。もしも、ぼくがいなかった場合、きみがしなくてはならなぬことは、それなんだ」

<……>

「あなたは、ジェニファーをどうやって殺すか、わたしに教えようとおっしゃるの」<……>「あなたのいうことは、なんたってごまかしよ。わたしにジェニファーを殺させ、自殺させて、自分は自由になって、ほかの女のところに行こうと考えているのよ」

 

 妻はこのあと、泣きわめいた末に寝てしまうのだが、これは人間として自然な反応だろう。人間はいずれ死と向き合わなければならない定めを背負った存在だが、その時期を知ったからといって素直に受け入れられるものではない。キューブラー・ロスが発見した死の受容プロセスように、死を前にした人間は、それを認めたがらず、ときには怒り、生き残るために誰かと取引できないかと必死になる。酒に溺れるのも、スポーツカーを乗り回して死から逃れようとするのも、その一環と言える。

 確かに、この作品は終末を理想的に描きすぎているかもしれない。放射能が街に迫ったと聞いても市民が動じないこと、暴動ひとつ起きないことなど、違和感はある。

 しかし、これだけは確かだ。みんな死を目の前にすれば泣き叫びたくもなるし、浴びるように酒を飲みたくもなる。みんな死を忌み嫌い、できれば逃れようとさえしている。この作品が人を惹きつけるのは、人類の終わりを文明の衰退ではなく、そういった死を前にした人間の反応と重ねあわせているからだろう。

 ちなみに、終末を目撃するのオーストラリア人々という設定は、地獄をハイウェイをベースに映画化されたマッドマックスシリーズと同じ。ヒューマンガスやイモータンジョーがマッスルカーで大地を駆け巡っている横で、こういった悲劇が展開されていたと思うと、何やら感慨深いものがある。

渚にて―人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて―人類最後の日 (創元SF文庫)

 

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