2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

コネリー時代の007で虐殺文法を展開してマーズアタックでしめる素敵な映画、キングスマン

  というわけで、キングスマンを見てきた。

 監督自身がパンフレットで公言しているように、この作品の半分は007の引用で成り立っていると言って良い。コネリー時代のかっちりとしたスーツを着こなし、防弾傘で銃弾の雨を弾き、畳んでライフル化させた傘で敵を吹き飛ばす等々の秘密兵器を駆使して世界征服を目論む組織を叩き潰す、というロマンを確実に受け継いでいる。

 この辺りは予告編でも十分わかる。問題はあとの半分、殺戮の話。

 世界を救って、ボンドガールとベッドを共にしてはいおしまい、というのが007のお約束的な結末。あくまで冷戦構造の中で西側の要望に応えるために仕事を行い、物語もその通りに進む。だから、アブロ・バルカンに積まれた核弾頭が盗まれようが、東側のロケットが、あるいは潜水艦が盗まれようが、それらが使われることはなかった。

 しかし、キングスマンは違った。スマートフォンを通して人々の神経をかき混ぜ、世界中を混沌の中に叩き込んだ。世界の警察内部の教会では刃物を駆使して白人が殺し合い、産業革命発祥の地では暴動中の集団にハートマスターが突っ込み、ブラジルのサッカースタジオではフーリガンも真っ青な乱闘が繰り広げられる。とどめは威風堂々をBGMにしたマーズアタック的なあの場面。

 不謹慎なことに、それらのシーンがどうしようもなく美しい。007にはなかった殺戮の、西側の加護なんぞもはや存在しないという状況を思い知らせようとしているような絵面が兎に角素晴らしい。

 そこのところが楽しい映画でした。