2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

ニーベルングの指環 その演出と解釈

  1976年のバイロイト百周年を記念して「<指環>はいま」と題して開催されたシンポジウムの記録。参加者は指揮者から歴史家まで様々だが、本書は特に演出家に重点を置いて書かれている。

  メトロポリタンで指環を演出したシェンクのように北欧神話の延長で物語を解釈すべき、とする演出家は登場しない。これはヴィーラント、シェローを経たバイロイトでいまさら原点復帰を口にする必要性もなく、まだヴィニフレートとヒトラーの記憶も生々しい時代だったこともあるだろう。とにかく、基本的なスタンスはファルガハの

ワーグナーが総譜のなかで行った構想と、各場面での照明上の指定とは、決して重なりあいません。それらの指定は<指環>の上演化というものを考えた場合、ワーグナーの時代の舞台芸術の可能性とか映像のイメージとかに拘束されているのです。神話的な先史時代、十九世紀、現代、未来と上演が可能です。それで私は特定の時代、例えば古代ゲルマン神話の時代に舞台美術を限定することはおかしいと思っているわけです。それで登場人物に「現代の眼から」捉えられるイメージを与えたいのです」(演出家ウルリヒ・メルヒンガー、トーマス・リヒター=ファルガハ(舞台美術)、ハンス・ヨアヒム・シェーファードラマトゥルギー)と語る.p.37))

という発言に凝縮されている。

 興味深いのは、ジークフリートプルードンバクーニンといった社会主義陣営と捉えてバーナード・ショー的な読み方をする舞台美術家がいる一方でパトリス・シェローがまっとうな解釈を提示していることだ。

 彼は百年記念として西洋史的な読み方を提示して物議を醸しだした人物だが、本書のインタビューを読む限りは指環を政治的な告発として読んではいない。ファルガハのようにジークフリートを革命家としては読まず、彼の無鉄砲ぶりは単なる無知からきた制御不能な暴力、ヴォータンのネグレクトの結果としている。だから、彼を舞台に現す場合は自己喪失に陥った幼児で、「自分が退屈で愚かであることを知っており、さらに、不安や懐疑を知らないかぎり、決して完全な人間にはなれないことに気づいている。これは決定的な契機である。この人物は「逆転」し、魅力的になる。というのは、「不完全」であるというこの持続する直感こそが、彼を最後には自由にすることになるからである。この直感が彼を偉大にする。恐れを知ってはじめて人間と呼べる」ようにしなくてはならない。メト版の感想でも書いたが、私はジークフリートの横暴さが生理的に受け付けず、また19世紀的な視点で言っても不自然だと考えていたため、この解釈には納得がいった。

 また、ショーが見て見ぬふりをした神々の黄昏についてもジークフリートへの献身、イタリア・オペラのような大団円とは読まず「父親の心配」からの解放と解釈している。もうすでに披露してしまった舞台についていまさら注釈をいれる必要もないと思っているのか、それともトラブルを恐れてのことかはわからないが、彼がこのようにインタビューに答えているのは意外だった。

 他にも「ワルキューレはヴォータンがフリッカの怒りをかわすためにブリュンヒルデと共につくりだした自作自演であり、ブリュンヒルデの目配せはその象徴」という興味深い指摘もあった。

p.37,44,190,193,195,199,293,333

ニーベルングの指環 その演出と解釈

ニーベルングの指環 その演出と解釈

 

 

完全なるワーグナー主義者

  バーナード・ショーによる指環解説本。20世紀前半の教条的なリベラリストらしい社会主義リアリズム風な解読が特徴。北欧神話を素材につくられ、1945年のベルリン陥落を髣髴とさせる結末故にナチズムを用意したとまでいわれる作品を彼が解説しているのもなんだか不思議な話だが、元々音楽評論家だったことがきっかけになったらしい。おかしな縁で書かれた本書だが、ワーグナーと同じく革命にある程度理解があるおかげで、ラインの黄金からジークフリートまでの流れを貴族社会の崩壊と市民社会の誕生の戯画として明階かつ筋を通して解説してくれる。ドイツ民族の神話としても参照される作品がリベラリストによって解体されるというのは皮肉なことだが、筋の複雑さに加えて、ヴォータンやジークフリートのように気分があちこちへ飛ぶ登場人物が多いだけに、一つの視点から意味付けをしつつ筋を示してくれる本は存在するだけでもありがたい。

 曰く、ラインの黄金は貴族ヴォータンと資産家アルベリヒの闘争を通して金権の醜悪な様子を戯画し、ワルキューレは社交界の長であるヴォータンが反政府勢力を葬るために別の階層で拵えた無政府主義者ジークムントを悲劇的に描き、ジークフリートはそれらすべてと縁を切った希望の無政府主義者ジークフリートを提案している。

 アルベリッヒは貴族社会や社交界の美しさに憧れるも拒否され、金の亡者に成り果てた哀れな男、隠れ頭巾はシルクハットを象徴し、慈善事業で労働者につけいって知らぬ間に金銭を搾取する金持ち(ヴォータンがワルハラを建造する際に巨人族と一騒動起こしていることを考えるとなかなかおもしろい説だ)、ジークフリートをヴォータンが権力者、法の番人という地位を維持しながら非合法な手段でアルベリッヒらを打倒する非合法な手段と見ているのが新鮮だ。

 ただ、ジークフリートまでを革命劇として作品を読んでいたショーが神々の黄昏に解説にはいるなり、前置きからこれを大仰で無意味なグランドオペラへの退化だと失望しているのが興味深い。せっかくジークフリートによって契約の鉾が砕かれ、旧体制が打破されたのにわざわざ世界を終わらせつ必要はない。ましてや愛を叫ぶのはもってのほかということらしい。

 結果論になるが、彼のいう二十世紀前半に生まれたジークムントの子どもたちは神々を撃ち殺すという市民の願いは叶えたはいいが、その後も指環の筋書き通りにソビエトで、あるいは中国で、いまでも北朝鮮で同志を吊し上げて虐待している。無知であったが故にギービヒ家のハーゲンの術中にはまって背後を刺されたジークフリートそっくりだ。初期の社会主義者には共産主義国家の党員の特権階級化、全体主義化や90年代のソ連邦の崩壊とその後の混沌がまったく見えていなかったことの証明だろう。革命は既存の習慣の打破から生まれるのだろうが、無作意な破壊は生活基盤そのものを破壊してしまう。ショーはオーウェルやケストラーのように社会主義の未来を読めなかったが故に指環を読み誤った。

 しかし、彼の発明した政治的読替は戦後にドイツの地に引き継がれている。私はシュトゥットガルトジークフリートは金持ちのデブ親父の元で育った反抗期のデブで、テレビゲーム感覚でノートゥンを鍛えるバカという演出が大好きだ。彼が社会主義を称えるためにおこなった読替えは逆に革命の難しさを、間抜けさを風刺するという形で生存している。ショー自身は文句を言うだろうが、彼の発明はまだ生きている。

完全なるワーグナー主義者

完全なるワーグナー主義者

 

 

指輪物語とか

 冥王サウロンの野望を打ち砕くために指環を滅びの山へと運ぶ旅の仲間の物語。
 ヴァイキング風の絵面で故郷奪還と王への忠誠を描いたのがホビット 思いがけない冒険なら、この三部作は中世騎士物語の幻想文学を利用した読替えだといえるだろう。富の象徴でもある指環に心を奪われて一行を追う黒馬に乗った干乾びた王、魔法使いに心を狂わさて息子を失い失意のなかで親子の縁と王座について考えなおす王、偽りの王座を維持しようと横暴に振る舞った結果二人の息子を失い自ら火だるまになって身を投げる執政官、過去の裏切りに囚われ亡霊となった王と先王から引き継いだ剣をもって契約を締結する王子等々、アーサー王シャルルマーニュに登場するような忠誠と忠義、君主のあり方を示す物語がいくつも盛り込まれている。
 この作品の最大の特徴はオスマン帝国を彷彿とさせる無数のオークと騎士たちの戦いだろう。平原はトロールの軍楽隊に率いられたオークによって埋め尽くされ、甲冑で身を固めた人間、エルフの精鋭たちとエルフと何キロにも及ぶ面でぶつかりあって屍の山をつくり、まるまると太った大木のような戦象がその山を突き崩して生者も死者も問わずになぎ払う。
 追い詰めた人間の城は破城槌で城壁が打ち壊され、爆薬筒で石壁ごとバラバラに砕かれ、時には城ごと投石機でばらばらに解体し、また時には梯子で城壁を乗りこえられて片っ端から首が刎ねられる。スパルタカスのような作品を除けば、このような軍団同士が面でぶつかり合った作品はない。
 緑のなかでのほほんとパイプをくわえていたホビットと魔法使いの顔がだんだんとすすで汚れ、切り傷に顔を犯されて行く様子が強烈な印象を残す。

 

 

沖縄決戦とか日本のいちばん長い日とか

 シンゴジの影響で岡本喜八が話題にあがることが多くなったので、土日をつかって「沖縄決戦」と「日本のいちばん長い日」を観た。

 どちらも会議映画であり、(史実はどうあれ)現場の足を引っ張るのが陸軍上層部だという点では一致している。沖縄決戦では大本営の一定しない作戦指導のもとで部隊の引き抜きと移転、飛行機もないのに滑走路の建設が繰り返され、混乱した状況のママで戦闘に突入する。前半一時間は複雑に編まれた陣地と入り組んだ地形を利用して一時は優勢な日本軍も次第に米軍の放つ砲弾と白煙のなかで戦う術を失い、突撃と自決を重ねる屠殺場と化していく。小兵力でも打って出よという電報の虚しさが強烈な印象を残す。

 この「打って出よ」という言葉に惑わされ、引き際を見失った結果が「日本のいちばん長い日」だ。東京と大阪の大空襲に引き続いて、広島と長崎を原子爆弾によって失い、沖縄を占領され敗戦が目に見えている状況で、東京にいながら本土決戦を望む陸軍の人々は牛島を指導しようとした大本営と重なる。降伏条件が気に食わなければ本土決戦を、特攻機の出撃をと叫ぶ。終戦の勅書の作成時に「戦局日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」に書き換えるように熱意を注ぐ様子は、撤退を転進と言い換え現実逃避を図った全陸軍と酷似している。「最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない」とは48年後の1993年に荒川が呟いた言葉だが、これら二つの喜八映画ほど明確に表した作品はないだろうし、浮動する指導者たちの姿は確実にシンゴジラに引き継がれている。

「愚連隊西へ」と「血と砂」も見ておきたかったが、時間がないので断念。

 

 

ホビット 思いがけない冒険

  ドワーフホビットらによる故郷奪還の旅、あるいは神々の黄昏から生き残ったものたちとライン川から蘇った指環の物語。(直接的なつながりはないが、一九世紀から二十世紀前半に書かれた”欲望を支配する指環”の物語とあれを結びつけるなという方が無理だ)

 アーサー王以後を思わせる作風だった指輪物語から遡ったようなゲルマン風の風景が印象的だ。問答無用でホビットの家へと押し入り、華奢なバギンズを押しのけて魚を頭からかじりつき、千鳥足で歌いながら食器を投げては山のように重ねていく太っちょのドワーフ。彼らが暴れる岩肌のだいだらぼっちの肘にしがみつき、地下の広大な空間に張り巡らされた木組みの橋を叩き壊して、飛び散る破片から無数の情報を生み出す姿にはセシル・デミル的な感動がある。

 01年の指輪物語の頃から思っていたが、ピーター・ジャクソンの絵画的な画のつくりは徹底している。北欧の寒空のもとでファランクスを組んで正面からオークとぶつかり合う槍兵、飼いならされたトロールの頭突きによって打ち壊される城壁、コンスタンティノープル陥落を髣髴とさせる血なまぐさい攻城戦、ロンドン大火を再現するかのように炎上する海商都市と例を挙げだせばきりがない。

 ホビット三部作で特に秀でていたのはエレボールで暴れまわるドラゴンだろう。恐るべき細かさ、書き込み量で再現された黄金の中に眠り、張り巡らされた螺旋階段や空中通路を縦横無尽に飛びながら、体格差をアピールするかのように主人公らの真横をかすめていく様子は迫力満点だ。おそらく、怒れるドラゴンや岩山、ぶつかり合う軍勢を撮らせれば彼の右に出るものはいない。

 しかしながら、そのスケール表現の巧みさにくらべて脚本や心理表現が浅いことは否めない。物語はドワーフの故郷奪還を主軸とし、前三部作同様にホビットによる勇気の獲得、ドワーフの英雄の改心とエルフとの和解と単純で、原作の肝だった膨大な地理情報や生活誌はごっそりけずられている。

 脚本の密度や設定の取捨選択に多少の疑問は残るが、ゲルマン民族のIFを視覚的に再現しているだけでも偉大なことだし、広大な草原で魔法使いがうさぎにそりをひかせてオークと追いかけっこさせたり、月光の中で地図の印を発見する光景は筆舌に尽くしがたいものがある。劇場の巨大なスクリーンでしか体験できないものがある、ということを思い出させる映画だ。

 

 

 

 

 

 

ワーグナー:楽劇《神々の黄昏》 [メト1990年版]

 ハーゲンの謀略によって記憶を失ったジークフリートと呆けた彼によってグンターに差し出された妻ブリュンヒルデの悲劇。

  四夜のうち最も悲劇的、運命論的な作品だ。世界を知るために妻ブリュンヒルデのもとを発ったジークフリートはギービヒ家の悪漢ハーゲンによって媚薬を飲まされ過去を忘却し、ギービヒ家の長男グンターに妻を差し出す。一方のブリュンヒルデジークフリートの災難を知らずのうちに自分をグンターに差し出したことに怒ってハーゲンにジークフリートを殺させてしまう。

 二人のすれ違いの原因はハーゲンにある。彼がブリュンヒルデを煽りたて血の復讐を誓わせなければ、そもそも彼が媚薬をジークフリートの酒に盛ることがなければ二人は第二夜の結末通りに幸せに暮らしただろう。それ故、バーナード・ショーはこれをできの悪いイタリアオペラ的な悲劇と考え、完全なるワーグナー主義者のなかでも解釈を拒否した。

 しかし、鳥瞰的に眺めればわかることだが、彼が謀略を企てたのは父アルベリッヒが神々に奪われたニーベルングの指環を取り戻すため、あるいはラインの乙女に浴びせられた醜きものへの罵声への復讐なのだ。ハーゲンという悪漢には序夜で迫害されたアルプの悲鳴、第ニ夜で無残に撲殺されたミーメの嘆きが込められている。

(さらにいえば、ハーゲンには私怨というものがまるで見られない。まさに革命のために形成された記号、キャラクターだ。ショーの失敗はジークフリートを見つめすぎたことにある。なんだかんだで彼もブルジョア的な、血統書つきの英雄が大好きなのだ)

 劇中ではほとんど姿を見せることのないラインの乙女の呪いがアルプを通してハーゲンの背後で、あるいはヴォータンを通してブリュンヒルデの後ろで蠢いているという意味では運命悲劇的なダイナミクスが感じられる作品だった。

 シェンクの舞台はいつもどおり絵画調で演出的に観るべきものはない。大仰な振付でジークフリートはギービヒ家で悪戯に飾りの鉾を振り回し、ノルンは原作者の指示通りに綱に書かれた文字を朗読する。シェローのような深さは望むべくもない。

 それにしてもハーゲンに語りかけるアルベリヒに序夜のような腫瘍がなかったのが不思議だ。神々に復讐するため、ギービヒ家の”人間”を生むために根性で治したのだろうか。

神々の黄昏*楽劇 [DVD]

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ダンジョン飯 3巻

 魔物を煮たり焼いたり食べたりするRPGグルメマンガの三冊目。相変わらず、剣と魔法の世界を料理(という科学)をもって引っ掻き回すのが良い。

 苦労して倒した巨大イカを尻目に体内を這いずりまわっていた寄生虫を蒲焼きにして食べたり、食草の皮を向いて食べたり(これに関しては我々もジャガイモのように皮に毒物が含まれているものを食べているのだから笑うこともできないのだが)、毒ガエルの皮をなめして防護服を仕立てる様子が楽しい。

 キャラクターが固まってきたこともあって、ライオス一行の異常性が顕になりはじめているのも面白い。自分たちが襲われた場所で飯の残り香を嗅いで「どういう神経してんだ」と怒るパーティー、水棲馬の肉を液状のウンディーネで煮込んだシチューを食すマルシルに唖然とするナマリ。ダンジョン飯、というタイトル、RPGという自由自在な世界観によって隠蔽されてはいるが、彼らが行動は我々の現実でいえば山道で熊や鹿を捌いたり、虫で煮こみをつくっているようなもので著しく常識を欠いている。彼らはあくまでゲテモノ食いである、という自覚が一行のキャラクターを引き立たせている。

 

 p.21,23,28,52,56,63,106,131,157,180