2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

ホビット 思いがけない冒険

  ドワーフホビットらによる故郷奪還の旅、あるいは神々の黄昏から生き残ったものたちとライン川から蘇った指環の物語。(直接的なつながりはないが、一九世紀から二十世紀前半に書かれた”欲望を支配する指環”の物語とあれを結びつけるなという方が無理だ)

 アーサー王以後を思わせる作風だった指輪物語から遡ったようなゲルマン風の風景が印象的だ。問答無用でホビットの家へと押し入り、華奢なバギンズを押しのけて魚を頭からかじりつき、千鳥足で歌いながら食器を投げては山のように重ねていく太っちょのドワーフ。彼らが暴れる岩肌のだいだらぼっちの肘にしがみつき、地下の広大な空間に張り巡らされた木組みの橋を叩き壊して、飛び散る破片から無数の情報を生み出す姿にはセシル・デミル的な感動がある。

 01年の指輪物語の頃から思っていたが、ピーター・ジャクソンの絵画的な画のつくりは徹底している。北欧の寒空のもとでファランクスを組んで正面からオークとぶつかり合う槍兵、飼いならされたトロールの頭突きによって打ち壊される城壁、コンスタンティノープル陥落を髣髴とさせる血なまぐさい攻城戦、ロンドン大火を再現するかのように炎上する海商都市と例を挙げだせばきりがない。

 ホビット三部作で特に秀でていたのはエレボールで暴れまわるドラゴンだろう。恐るべき細かさ、書き込み量で再現された黄金の中に眠り、張り巡らされた螺旋階段や空中通路を縦横無尽に飛びながら、体格差をアピールするかのように主人公らの真横をかすめていく様子は迫力満点だ。おそらく、怒れるドラゴンや岩山、ぶつかり合う軍勢を撮らせれば彼の右に出るものはいない。

 しかしながら、そのスケール表現の巧みさにくらべて脚本や心理表現が浅いことは否めない。物語はドワーフの故郷奪還を主軸とし、前三部作同様にホビットによる勇気の獲得、ドワーフの英雄の改心とエルフとの和解と単純で、原作の肝だった膨大な地理情報や生活誌はごっそりけずられている。

 脚本の密度や設定の取捨選択に多少の疑問は残るが、ゲルマン民族のIFを視覚的に再現しているだけでも偉大なことだし、広大な草原で魔法使いがうさぎにそりをひかせてオークと追いかけっこさせたり、月光の中で地図の印を発見する光景は筆舌に尽くしがたいものがある。劇場の巨大なスクリーンでしか体験できないものがある、ということを思い出させる映画だ。

 

 

 

 

 

 

ワーグナー:楽劇《神々の黄昏》 [メト1990年版]

 ハーゲンの謀略によって記憶を失ったジークフリートと呆けた彼によってグンターに差し出された妻ブリュンヒルデの悲劇。

  四夜のうち最も悲劇的、運命論的な作品だ。世界を知るために妻ブリュンヒルデのもとを発ったジークフリートはギービヒ家の悪漢ハーゲンによって媚薬を飲まされ過去を忘却し、ギービヒ家の長男グンターに妻を差し出す。一方のブリュンヒルデジークフリートの災難を知らずのうちに自分をグンターに差し出したことに怒ってハーゲンにジークフリートを殺させてしまう。

 二人のすれ違いの原因はハーゲンにある。彼がブリュンヒルデを煽りたて血の復讐を誓わせなければ、そもそも彼が媚薬をジークフリートの酒に盛ることがなければ二人は第二夜の結末通りに幸せに暮らしただろう。それ故、バーナード・ショーはこれをできの悪いイタリアオペラ的な悲劇と考え、完全なるワーグナー主義者のなかでも解釈を拒否した。

 しかし、鳥瞰的に眺めればわかることだが、彼が謀略を企てたのは父アルベリッヒが神々に奪われたニーベルングの指環を取り戻すため、あるいはラインの乙女に浴びせられた醜きものへの罵声への復讐なのだ。ハーゲンという悪漢には序夜で迫害されたアルプの悲鳴、第ニ夜で無残に撲殺されたミーメの嘆きが込められている。

(さらにいえば、ハーゲンには私怨というものがまるで見られない。まさに革命のために形成された記号、キャラクターだ。ショーの失敗はジークフリートを見つめすぎたことにある。なんだかんだで彼もブルジョア的な、血統書つきの英雄が大好きなのだ)

 劇中ではほとんど姿を見せることのないラインの乙女の呪いがアルプを通してハーゲンの背後で、あるいはヴォータンを通してブリュンヒルデの後ろで蠢いているという意味では運命悲劇的なダイナミクスが感じられる作品だった。

 シェンクの舞台はいつもどおり絵画調で演出的に観るべきものはない。大仰な振付でジークフリートはギービヒ家で悪戯に飾りの鉾を振り回し、ノルンは原作者の指示通りに綱に書かれた文字を朗読する。シェローのような深さは望むべくもない。

 それにしてもハーゲンに語りかけるアルベリヒに序夜のような腫瘍がなかったのが不思議だ。神々に復讐するため、ギービヒ家の”人間”を生むために根性で治したのだろうか。

神々の黄昏*楽劇 [DVD]

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ダンジョン飯 3巻

 魔物を煮たり焼いたり食べたりするRPGグルメマンガの三冊目。相変わらず、剣と魔法の世界を料理(という科学)をもって引っ掻き回すのが良い。

 苦労して倒した巨大イカを尻目に体内を這いずりまわっていた寄生虫を蒲焼きにして食べたり、食草の皮を向いて食べたり(これに関しては我々もジャガイモのように皮に毒物が含まれているものを食べているのだから笑うこともできないのだが)、毒ガエルの皮をなめして防護服を仕立てる様子が楽しい。

 キャラクターが固まってきたこともあって、ライオス一行の異常性が顕になりはじめているのも面白い。自分たちが襲われた場所で飯の残り香を嗅いで「どういう神経してんだ」と怒るパーティー、水棲馬の肉を液状のウンディーネで煮込んだシチューを食すマルシルに唖然とするナマリ。ダンジョン飯、というタイトル、RPGという自由自在な世界観によって隠蔽されてはいるが、彼らが行動は我々の現実でいえば山道で熊や鹿を捌いたり、虫で煮こみをつくっているようなもので著しく常識を欠いている。彼らはあくまでゲテモノ食いである、という自覚が一行のキャラクターを引き立たせている。

 

 p.21,23,28,52,56,63,106,131,157,180

ダンジョン飯 2巻

剣と魔法の世界の料理本かと思いきや、今回も鼻行類に似た魔界生態研究報告だった。ゴーレム畑(自律警備システムを搭載)とかもう青背の発想。

 

 

ダンジョン飯 1巻<ダンジョン飯> (ビームコミックス(ハルタ))

魔物を煮たり焼いたり食べたりするRPG料理本。宿や屋台を食べ歩くような所謂グルメ本というより魔物をつかった思考実験、作風は鼻行類に近い。魔物の筋の入り方を分析して倒し方、捌き方を研究したり解剖図で部位を示して適した調理法を模索したりとひとつひとつの説明に妙な説得力がある。ダンジョン内部の生態系を把握して生息域を把握し、自分が口にしている料理の食材に思いを馳せ(時には拒絶す)るところは特に斬新だった。SF的な発想が詰まった素晴らしい一冊。

p.7,13,20,30,53,62,69,126,130,173

 

 

「イギリス社会」入門―日本人に伝えたい本当の英国 (NHK出版新書 354)

 中流生まれのオックスフォード卒、日米で特派員として活躍した経歴を持つイギリス人による英国文化レポート。ユニオンジャックに封じられたアイルランドのセント・パトリック・クロス、労働者の味方を演じるために名門校の服装を隠そうとする政治家、母語である英語の主流をアメリカにとられて傷つく一方で、アメリカ人によって再建されたグローブ座でシェイクスピアを観劇する英国人。大英帝国の亡霊と新たな社会の波の間で揺れ動く姿が印象的だ。欧州大戦初期の頃に戦線地図ならぬ紅茶地図を作製したというエピーソドはイギリスらしい皮肉と愛情の共存を感じさせる。

 単なる自虐混じりのお国自慢かと思えばそうではない。扱っているテーマは階級、王室といったイギリスらしいものからパブで暴れる若者といったどこにでもありそうなものまで幅広い。恥じらいもなくイスラム教徒を差別し、アイルランドを罵倒する人物としてジェレミー・クラークソンの名前も登場する。著者は彼を好ましからぬ人物として紹介しているが、彼が道路の速度制限や環境保全への疑問を口にするとき、英国人は彼に共感しているのだとやんわり肯定している。イギリス人といえば、常に物事を二面的に捉えてブリティッシュジョークをとばすようなひねくれ者として描かれることが多いから、こういう直情的な見方を提供してくれるのは新鮮だしありがたい。それが親近感と文化の隔たりを同時に、生々しく伝えてくれる。

 オーウェルにも似た皮肉のきいた文体が独特で癖になる一冊だった。

 

「イギリス社会」入門―日本人に伝えたい本当の英国 (NHK出版新書 354)

「イギリス社会」入門―日本人に伝えたい本当の英国 (NHK出版新書 354)

 

 p.17,36,51,74,101,115,126,128,198

ワーグナー:楽劇《ジークフリート》 [メト1990年版]

 第一夜で神々に追い詰められたジークムント、ジークリンデの残した子ジークフリートの英雄譚、彼と神々を裏切ったブリュンヒルデが交わる物語。権力から解き放たれたふたつの血が交わり、いよいよ北欧神話と伝説が交錯する。

 この第二夜にはクロスオーバー作品と同じ楽しみがある。ワルキューレ第一幕の春と愛で生まれた子ジークフリートと彼の良心を庇って魔の炎の中に閉じ込められたブリュンヒルデが交わる。育ての親はラインの黄金でアルベリヒの下で奴隷として働いていたミーメ、祖父は三夜すべてに諸悪の根源として登場するヴォータンだ。祖父がミーメと会話する舞台ではラインの黄金の空気が醸成され、祖父がジークフリートに契約の鉾を叩き折られる瞬間、それまでの神々の権力闘争がデフォルトに戻ったことが示されるこの第二夜は英雄譚としては完成度が高い。

 

 ただし見過ごされがちなのだが、その英雄譚というカテゴリーそのものがワーグナーによって憎まれ、ナチズムによって信奉されたものに他ならない。ジークフリートは三幕のうち半分を暴力とともに過ごす。ホイホー!ホイホー!!と叫びながらミーメの鍛冶場に飛び出してきたかと思えば、育ての親に対して顔が醜いと”美声”で怒鳴りつけ、本当の親は俺のようなイケメンのはずだとわめき散らして”英雄ジークムントの子だという過去”を手に入れる。四夜のうちジークフリートだけを抜き出して考えればわかることだが(我々は序夜のヴォータンによる巨人族やアルベリヒへの虐待を思い出すべきだ)、こういった彼の暴虐無人な振る舞いはヴォータンから引き継がれたヴェルズングの血とテノールによって肯定されている。かつてドイツ人が信仰したゲルマン民族の優越性と独ソ戦での振るまいと何ら変わりないのだ。

 オットー・シェンクは大陸では遥か昔に失われた、絵画的ゲルマン的な風景をアメリカの地で再現した。メルヘンチックな舞台は様々な伝説から集ったゲルマンの神々、英雄が優雅に歌い合う光景にふさわしいだろう。しかし、それがワーグナーの楽劇をバイロイト以外の場所で上演することの限界を示してもいる。金髪碧眼で筋骨隆々のジークフリートブリュンヒルデゲルマン民族の優越性を再現し、体中に腫瘍をかかえ、指環の所有権を罵り合うニーベルング族のアルベリヒとミーメはメトの人々にとっての有色人種のあるべき姿を示したに過ぎない。過去は過去でしかない。しかも、その過去はワーグナー自身がハリボテと罵倒した類の過去、バイロイトがナチズムと縁を切る意味で捨て去ったものでものなのだ。

 

ワーグナー:楽劇《ジークフリート》全曲 [DVD]

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