2013/06/01-

時間の無駄だから読まないほうがいいよ。

ジークフリート伝説 ワーグナー『指環』の源流 (講談社学術文庫)

 古代ライン川のほとりに生まれたシグルドが、近世のニーベルングの指環ジークフリートとして活躍するまでを時代毎のあらすじ、造形を比較しながら追跡している本。鍛冶屋の息子として育ち、竜を殺して英雄となったフランクリン時代(記録は諸事情で散逸)、オージンの末裔として北欧神話の一員となった「エッダ」、クリームヒルトに惚れて愛を知った「ニーベルンゲンの歌」、竜を倒すことで小鳥の声を聞き自然の雄大さを知る術を得た「竜殺しのジークフリート」、それらすべてを内包し、神々の黄昏を招いた「ニーベルングの指環」。特に楽劇では竜退治のあとに登場する「森のささやき」(葬送行進曲でも示導動機として登場する)が最初は鍛冶屋の策謀を密告する声でしかなかったいうのには驚いた。ドイツロマン派が密告を森のささやきと読み替えなければジークフリートは愛に目覚めず、ブリュンヒルデとの出会いもなかったのだ。

 また、ジークフリート像の後追いにとどまらず、指環の主題である「愛と救済」(愛と権力の対決)がニーベルンゲンの歌でクリームヒルト(夫の復讐)とハーゲン(権力欲)の対立として、(ラインの黄金のように愛についてのものではないが)黄金に呪いがかけられてジグルドの運命を左右するという流れがフケーの戯曲に存在しているとするという情報も掲載されており、楽劇自体の構造、歴史についても追求されていて興味深い。

 比較にはいるまえに、いくつも同じようなあらすじが掲載されているため読み物としては退屈だが、楽劇のルーツを知る上ではこれ以上ないくらい適切な史料だろう。あとがきの「先生と研究室に残って四夜連続で聞いた指環の話」も泣けた。

p.39,62,90,98,119,146,150.174.262

 

ジークフリート伝説 ワーグナー『指環』の源流 (講談社学術文庫)

ジークフリート伝説 ワーグナー『指環』の源流 (講談社学術文庫)

 

 

ニーベルンゲンの歌〈後編〉 (岩波文庫)

 血の復讐編。前編の見せかけの和解がじわじわと事態を悪化させていく。クリムヒルトは改心に見せかけてエッツェルと結婚し新たに従えた部下で復讐を企て、グンテルは和解したのだからと呑気に国へとはいる。(デンマークやブリュンヒルトの問題解決策をすべて他人に委ねていた彼らしい)。仲直りしたと思い込んでいる兄と復讐に燃える妹のすれ違いが哀しい。やがてフン族の王子の首は刎ねられ王妃の足元へ、雑兵は藁のように薙ぎ倒され、バイオリン弾きの指は飛ばされる。ごろごろと転がった死体の血は「酒よりもうまい」とハゲネらにすすられ、残ったものは戦闘の邪魔だと城から投げ落とされる。凄惨な光景がひたすら二百ページにもわたって綴られ、それを締めるようにハゲネの首が刎ねられる光景はゲルマン的忠誠や契約、情念の恐ろしさを思い知らせるものだろう。(ハゲネが「主君がいるかぎり宝の在処を吐かない」と断言した途端にグンテルの首が刎ねられるのが象徴的だ。契約は履行されなければならない)。

 前編ではジークフリトやブリュンヒルトが忠誠を誓いさえすればトントン拍子で物事が進んでいったのに対して、エッツェルはハゲネを前にして何度も怖気づいている。肝心の戦端をひらいたブルーデルも富と女を引き換えに動いており、ブルゴンドの連中とは随分と性質が違うのだが、これが当時のフン族の解釈なのだろうか。

p.39,91,162,190,208,225,260,265,234

 

 

ニーベルンゲンの歌〈後編〉 (岩波文庫)

ニーベルンゲンの歌〈後編〉 (岩波文庫)

 

 

ニーベルンゲンの歌〈前編〉 (岩波文庫)

 前編の魅力はなんといっても武人の迫力、忠誠心の力強さにあるだろう。国のすべてを奪い取るととんでもない宣言をしながら現れるジークフリトとその迫力に魅了されるグンテル王、そこで結ばれた男同士の絆によって成されるデンマルク征服、競技会の敗者の首を次々とはねる鋼の女ブリュンヒルトとの(卑怯にも透明頭巾をつかった)結婚と征服といった数々の偉業。野蛮なマッチョイズムと言ってしまえばそれまでだが、だからこそ感じられるゲルマン的な力強さがある。 

ニーベルンゲンの歌〈前編〉 (岩波文庫)

ニーベルンゲンの歌〈前編〉 (岩波文庫)

 

 

ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》バイロイト音楽祭2010 [Blu-ray]

  読替えという意味ではシェローやクプファーの域を出ていない。メト版ほどではないにしろ、ほどよくわかりやすい舞台なのは、バイロイトお気に入りのティーレマンの指揮を邪魔しないように配慮してのことだろう。

 読替えではないが、フリッカとの論争中にもう一人のヴォータンが現れ音楽にあわせて内面を表現しているのは印象的だった。フリッカに脅される場面では本人とは別方向から睨み返し、ジークムントの殺害を決意する瞬間に鉾を真っ二つに折ってしまう。

 あと、ライティングもなかなかよかった。例えば第一幕の鍵であるノートゥングはサーチライトがジークリンデの歌と視点を追うようにして地面を履い、トネリコに突き刺さった状態で発見される。魔の炎は愛娘ブリュンヒルデを包む火炎は弦楽に促されるようにして灯っていくという具合だ。

 ちなみに第三幕の演出は白布に包まれた英雄の遺体をワルキューレが運ぶというもので、88年のクプファー演出を踏襲したものになっていた。

 全体的に面白いとは思うのだが、せっかくライトモチーフという他の劇にはない武器をもっているのだから、メトロポリタンのようなわかりやすさの罠にかかることもなかったのではないか、とも思う。振り付けにメタな意味付けをしたり他にやりようもあるだろうに。

 

 ティーレマンの指揮はなかなかのもので、弦楽を軸にして、残響音こみで観客を畳み掛けるようにして観客を襲う音の波は恐怖すら感じる。20世紀のハンス・クナッパーツブッシュと呼ばれるだけあった。

 

 

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》(メト1990年版)

  ラインの黄金に引き続いてワルキューレを観てみた。ヴォータンの息子ジークムントと娘ジークリンデの駆落と惨殺の悲劇が描かれており、ウォルスング家の物語が元となっている。原作は二人の悲哀が基軸だが、本作では彼らの父であり剣ノートゥングを与え支援したヴォータンと近親相姦と不倫を許さずヴォルフング家を用いて抹殺しようとするフリッカの対立が重ねあわせられ重層感が増している。彼らの子どもがやがてトネリコ炎上の引き金になるというのも憎らしい伏線だ。

 三幕では彼を庇って大神の怒りを買い、炎に包まれた岩山に閉じ込められうブリュンヒルデが描かれる。ラインの黄金と並ぶ、一見神々しいおはなしなのだが、これも神々の黄昏の前奏曲になっている。部分的には喜劇的悲劇、俯瞰的に観ても喜劇的悲劇という何とも味わい深い作品構成だ。

 さて、序章が神々の物語だったのに対して、第一夜は人間ドラマになっている。女神がほとんど登場しないため、舞台、衣装共にローマ、ゲルマン風に演出が統一されている。例えばヴォータンはラインの黄金に登場した時と同じくローマ風のマントに胸甲、ブリュンヒルデをはじめとしたワルキューレたちも大神の部下ということで同じ服装に統一されている。ジークムントは逃亡中なので、鎧は着用せず着の身着のままだが、身にまとっている物自体はワルキューレたちの下位互換といったところだ。フンディングの館もそれにならってバイキング風の掘っ立て小屋になっている。なお、魔の炎があがるヒンダルフィヤル山も単なる岩山であり非常に簡素にしあげてある。

 驚いたのは歌手たちの激しい身振り手振りとそのわかり易さだ。ジークリンデは真っ白な歯をむき出しにした笑顔で戦士に水を振るまい、戦士が戦歴を語るとフンディングが目をギョロつかせて聞き入る。フンディングはジークリンデが戦士の妹だと発覚した途端に略奪したことを誇示するように顎を出して誇らしげに笑うのだが、この表情が絶妙に気持ち悪い。

 とどめは春と愛の演奏開始と共にバタンッ音を立てて開くフンディング邸の扉。恋が実ったからといって風が吹くだろうか、という反物語的な疑問はさておいても、ライトモチーフを含めた音楽による内面、状況表現が主なバイロイトとは真っ向から対立するような演出であることは間違いない。

 指輪物語を彷彿とさせるような毳毳しい舞台に無声映画時代を思わせるオーバーリアクションの連続、バイロイトの近代演出を愛好する人々からすれば身の毛もよだつようなワルキューレだが、個人的には気にいっている。私はもともと第一幕の純愛というテーマに非常に貴族的、オペラ的なものを感じていて、春の歌も嫌いだ。だからベーム版のジェームズ・キングとレオニー・リザネク色っぽい掛け合いであろうと印象は残らないし、むしろここまで脱臭され記号化されると白けもしないので調度良い。かなり身勝手な理由ではあるが、なかなか楽しめるワルキューレだった。

 

ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》全曲 [DVD]

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追記

そういえば第三幕冒頭の騎行にはワルキューレ以外の人物が登場しない、つまり英雄たちの死体が登場しない。まさに地獄の黙示録の”突撃する戦乙女”といった風な演出で、ヴォータンの英雄コレクションを支える女たちにはとてもじゃないが見えないのだ。1990年といえば、時期的にはバイロイトでクプファーの演出と重なっている。向こうはシェローの解釈をもとにミイラを運ぶヴァルキューレとなっていたが、同じ時期に上演されたものにこれほど差があるというのも興味深い。

ワーグナー:楽劇《ラインの黄金》(メト版)

  北欧神話のヴォータンと巨人の間に起こった神々の住処の賃金未払い騒動を種にした楽劇。原作ではトールによって巨人が打倒され物語は終わるが、本作ではギリシャ悲劇を思わせる災禍の連鎖となっているのが面白い。借金前借りで自分の城を建てるヴォータン、取立てに来た巨人を殴り殺そうとするドンナー(トール)、ラインの乙女に失恋し、慰めに彼女から奪った黄金でつくった指輪をさらにヴォータンの借金返済のために奪い取ら世界を呪うアルベリヒ、ヴォータンから借金代わりに渡された指輪に呪い殺される巨人族、最初から最後まで嘆き悲しみ唄うラインの乙女たち。全体を包み込むようにちりばめられた悲劇が心を打つ。また、悲劇は小人と巨人だけにとどまらず、ヴォータンも巻き込んだ指輪の奪い合いへと発展して神々の分裂を招き、黄金自体は第二夜のジークフリート、ギービヒ家によって拾われ神々の黄昏へとつながっていくのだが、このスケール感も中々。

 演出はオットー・シェンクによるもので、絵画のような幻想的な雰囲気が漂っている。書割いっぱいに描かれたヴァルハラの下でローマ風の鎧にマントを着用し権力を振り回すヴォータンと彼に振り回されるギリシャ風のキトンを着た女たち、その周辺で巧みに距離を取りながら神々を翻弄する蔦だらけのローゲ。羽衣をまとって岩山を上へ下へと舞うラインの乙女とそれを必死に追うヒキガエルのようなアルベリッヒはアンデルセンの童話を思い出させるし、全体的に完成度は高いとは思う。

 ただ、ワーグナー自身が嫌悪した「見た目だけ荘厳で、中身を伴わない演出」であることは否めない。衣装ひとつとってもヴォータンはローマ、フリッカはギリシャと国はばらばらで統一感がない。

 特にアルベリッヒはラインの乙女にいじめられるためだけの造形で辟易させられた。”愛を捨て権力をとること”で政治力を振り回し、見せかけの愛と繁栄を謳歌する傲慢な神々に対置することになる人物なのに、見た目で悪を表現しても意味はないだろう。(王服から背広への交代劇として描いたシェローの方がまだ物語を立体的に表現できている)

 いずれにせよ、(非歴史的)絵画史的な意味でのゲルマン史の延長で指環を演出した記録映像はこの他には存在しないので貴重な存在だといえる。また、ブロードウェイの国だけあって振付もわかりやすいし、初心者にはもってこいの作品なのではないか。

 

ワーグナー:楽劇《ラインの黄金》全曲 [DVD]

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未来の芸術 バイロイト祝祭劇100年

 1976年までのバイロイトの歴史をワーグナーの生涯、参加した指揮者や演出家を追いながら紹介しているドキュメンタリー。パリオペラ座のブルジョア趣味に対抗してバイロイトの地が選ばれた話にはじまり、全木製の劇場構造、地下に設置されたことで独特な音場を獲得したオーケストラピット等々の定番の説明が並ぶ。

 ワーグナーの浪費癖やそれに振り回されたバイエルン王、コジマやマティルデをはじめとする女性遍歴については一切触れられていない。ヴィニフレートも一応は紹介されてはいるが、ヒトラーと握手をした人物程度の扱いだが、劇場の宣伝を兼ねた作品なので、汚い話をしないのは当然といえば当然か。

 面白かったのは音楽祭の稽古風景で、ヴィーラントやクナッパーツブッシュといった新バイロイトを支えた人々が歌ったり稽古をつけたりしている姿を観ることができる。舞台を走りまわって演技を指導するヴィーラント・ワーグナー、照明スイッチをいじくりまわすエバーハルト、無言で威圧しながら指揮棒を振るクナッパーツブッシュとノリノリでメロディを口ずさみながらワルキューレの調整をするカール・ベーム

(ただし、残念なことにカラー映像は一切ない。伝説的なクナのパルシファルやPHILIPSベーム指揮の指環の表紙を飾っている新バイロイトの照明がどのように操作されていたのか知ることができれば文句はなかったのだが)

 ドキュメンタリーはヴィーラント、ヴォルフガングの時代を総ざらいして、ブーレーズへのインタビューで締められる。彼はのちにシェローと組んで”あの”舞台を世に送り出すことになるのだが、それを示唆させるような雰囲気はない。このあとの大騒動のことを思うとわくわくさせる絵面だった。

 淡々としていて目新しい主張やらがないので得るものは少なかったが、戦後バイロイトを映像で眺めることができたのは良い経験だった。

未来の芸術 バイロイト祝祭劇100年 [DVD]

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